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仏教エトセトラ

仏教にまつわるよもやま話

ブッダの語ったことば

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仏教学者の石飛道子さんをお招きし、10月9日に第5回「法話会」を開きました。以下はその抄録です。
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 人間を蓮華にたとえたブッダの言葉が残っています。世界を見渡すと人間は九種類に分かれる。汚れの少ない者と多い者、感覚の鋭い者とそうでない者、善い形相の者とそうでない者、教えやすい者とそうでない者、来世に恐れを抱く者。それはまるで青い蓮華や赤い蓮華、白い蓮華のようで、それぞれに水面から出ないもの、水面に接して立つもの、水面から出て立つものの三通りあって九種類あるのと全く同じだと。
 
 さらにブッダはどう生きるべきかを説いています。欲望がかなったときは嬉しいものだが、かなえられなかったとき、人は壊れていく。ゆえに自らの欲望に気づき、避けて生きるべきだと。気づくことによってそれ以上の欲を抑えることもできると。
 わたしたちは暴流に翻弄される舟のようだとも言っています。人生という暴流に漕ぎ出して、向こう岸に渡らなければならない。しかし舟は壊れて水漏れしている。些細な水漏れも、やがて舟を沈めるほどの水になることがある。そうならないよう、気づいたら水を汲み出しなさいとブッダは言います。壊れていない舟が良いに決まってますが、わたしの舟は所詮壊れているわけです。壊れた舟しかわたしには無いのです。手元にある、使えるものだけで彼岸を目指して渡るわけです。
 かくいうブッダはどのようにして暴流を渡ったのか。ブッダは言いました。「わたしは止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡りました。立ち止まるとき、実際、沈みます。力を入れてもがくとき、実際、流されます。だから、立ち止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡ったのです」。

  大乗仏教では向こう岸へ渡る、到彼岸ということがよく出てきますが、小乗仏教にはあまり語られません。人間は欲が湧くものです。しかしそれを避けるようにとブッダは言います。欲を避けること、そして水が入ってきたら掻き出すこと。その二つで人生を生きていくことができると。誰かこの方法で、彼岸に渡った人がいるだろうかと探したら、妙好人に出会いました。妙好人とは浄土真宗の篤信の信者のことで、なかでも因幡の源佐さんが知られています。妙好人の語源は「念仏するものは人中の分陀利華なり、妙好人なり」(善導大師『観無量寿経疏』)。
 源左さんは18歳で父を亡くします。父は「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして親にすがれ」と言い残したそうです。以来父が言っていた「親」をさがして仏法を聞き、三十歳を過ぎたある日、牛を連れて草刈りの帰途、自分が背負っていた草を牛の背に負わせた瞬間、ふいっとわかったそうです。親にすがれとは阿弥陀如来にすがるということで、親はこのわたしの生も死も引き受けると言っているのだと。

 ブッダが入滅されて500年たって、インドに龍樹菩薩という方がお生まれになりました。仏教中興の祖と言える方です。それから800年ほどたって日本に親鸞聖人がお生まれになられ、念仏と信心という二つのことばをもとに仏法は再び大きく花開きました。さらに幕末から明治大正にかけて妙好人が現れました。仏法は長い年月の間にどれだけ変わったのか、あるいは変わっていないのか。阿弥陀如来も念仏も、ブッダが残したことばには元々ありません。しかし、ブッダのことばをきちんと読み解けば、大乗仏教こそブッダの教えだとわかります。智慧と慈悲は阿弥陀如来となって具現化し、彼岸にわたる方法は信心と念仏によって確立されました。それは源左さんが証明しています。小乗仏教に伝わるのは出家者が彼岸にわたる方法であって、わたしたち凡夫は凡夫に適した方法で彼岸を目指さなければなりません。凡夫は蓮華のように様々な色があるのですから。(談)

ふるさとは遠きにありて

 その人は金沢市街を流れる犀川のそばに生れ、寺院で育ちました。寺院の寂しい一室で本を読んだり書いたりするのが好きな少年でした。養父だった住職は茶が好きな人で、茶をいれては茶の間から呼んでくれ、二人で朝や午后やを匂ひの高い茶をのみ、「それが私の読書や詩作を非常に慰さめてくれた一つのものであつた」と後に語っています。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

 その人、室生犀星はこの詩句の通り、文壇に盛名を得た後も金沢にほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたといいます。ふるさとを熱烈に思う郷愁と、帰ったとて記憶のなかのふるさとはもはやそこには残っていないことを受け入れる理性とが、折り重なるように自分を襲ってくる詩です。
 わたしたちは、外界の事物が世界を構成していると思っています。しかし実際は、わたしたちの脳が過去の経験の記憶に基づいて世界を構成しています。現代の認知心理学ではそう指摘し、2600年前に仏教を開かれた釈尊も同様のことばを残しています。目で見る世界が真の世界ではなく、脳が自分に都合の良いように世界を創っていると。人は自分で意味を創り、自分が紡ぐ意味の網を張りめぐらせた世界に住んでいると言う人もいます(大井玄『病から詩がうまれる』)。あるアルツハイマー病の女性が病棟を抜け出し、自分のアパートに帰ってしまったことがあったそうです。病棟医とナースが連れ戻しに行き、「保健所から来ました」と言うと、自分の部屋に素直に入れてくれました。そこには市松人形が二つ寝かされていました。彼女の夫の具合がよくないから一緒に来てくれ、という出まかせの理由を言うと、彼女は疑うことなく承諾しました。「ちょっと待ってください、子どもたちにご飯をあげますから」と言って、人形に食べさせるしぐさをしたあと、病棟へ戻ったそうです。わたしたちの認知する外界とはつながっていませんが、この女性の脳に蓄えられた経験と記憶が創る「意味の世界」にこの女性は生きていて、それは認知能力の低下が有る無しにかかわらず、誰もが同じく当てはまるのだそうです。
 室生犀星は生後まもなく生家近くの寺に最初は私生児として迎えられ、住職である室生家の養子となったのは7つの時。実の両親の顔を知らずに育ちました。繊細かつ鋭い感性の少年だったのだと思います。その寺は犀川に面し、そこから眺める犀川と周辺の自然を長く愛した人でした。

 何といふ善良な景色であらう
 何といふ親密な言葉をもつて
 温良な内容を開いてくれる景色だらう
  (「犀川の岸辺」)

 文学を志して上京したものの、ふるさとを一歩出れば世界はつらいことに満ちていました。ふるさとの川の景色は、養父母の慈愛を一身に受けた時代の体験と一緒になって記憶され、自らを慰め励ますよりどころだったことでしょう。しかし、ふるさとへ久々に帰省して感じるこの何とも言えぬ違和感。ふるさとは遠く離れたところから思うものであって、ここに居たのでは悲しい気持ちにさえなってくる。たとえ乞食になったとしてもここは帰るところではもはやない、ああ早く東京へ戻りたいと思わせる、この気持ちは一体何なのか。あの頃の友人もいなければ、養父母も実の両親も他界し、景色すら変わっていた。人間はそれぞれ意味の世界に生きている。それは一瞬一瞬、絶えず変化している。帰るべきところがなかったと気づいたとき、もはや行くべきところもないと感じることでしょう。没後、室生犀星の遺骨は金沢市郊外の野田山墓地に埋葬されましたが、それは犀星自身が本当の願ったことでしょうか。真の意味で、ふるさととは何でしょうか。

 僕は父と母とをうらんだ
 父も母ももう死んでゐた
 僕はほんとの父と母とを呪うた
 涙をかんじたけれど
 もうどこにもその人らはゐなかつた
   (「自分の生ひ立ち」)

 人は老いて、やがて死んでいきます。老いながら、体力の低下や身近な人との死別などを通し、世界とのつながりが少しずつ絶たれていく悲哀を味わい、時々刻々と不安に鞭をうたれます。その苦痛と不安から逃れることは誰とてできませんが、自ら創る「意味の世界」にいることでその苦痛を和らげているのでしょう。たとえばわたしは、南無阿弥陀仏の世界、阿弥陀如来の世界にいて、阿弥陀如来に我がいのちを受け止めてもらうことで、こころの安らぎを得ています。外から見る人には、きっと滑稽に映ることでしょう。しかしその世界にわたしは、ことばを超えた満足を感じています。(住職)

死別の悲しみ

 新年度が始まりました。お花見に行かれた方も多いでしょう。卒業式や入学式、入社式、退職など出会いと別れが交錯する春ですので、今回は釈尊の入滅を悲しんだ阿難(あなん)と羅嵯羅(らごら)という二人のお弟子を通して、死別の悲しみについて考えます。
 

  釈尊には阿難という侍者がいました。わたしたちが読むお経に「仏告阿難(仏が阿難に以下のように告げた)」と書かれていることから分かるように、「釈尊の 教えをお弟子のなかで最も多く聞いた方」と言われています。阿難が釈尊にお仕えするようになったのは、釈尊が55歳の頃。釈尊は身の回りの世話をしてくれ る侍者が欲しいとおっしゃり、お弟子たちが人選をすすめたものの希望者が多くて決まらず、そこで釈尊は阿難を望まれました。その当時、阿難は35歳前後と 考えられ、50代、40代が多いお弟子のなかで若く体力がある。加えて釈尊の従弟であり、旧知の間柄でした。爾来25年、侍者として釈尊がどこへ行かれる にもご一緒し、釈尊がおっしゃったお言葉をひとつ残さず記憶しつづけましたが、とうとう別れの時がやってきます。入滅を前に、釈尊は頭を北、足を南に向 け、右わきを下にして横になっておられ、その前で阿難は大粒の涙を流していました。「わたしはまだこれから学ばねばならないのに、師はお亡くなりになろう としている」。その言葉を聞いて釈尊はおっしゃいました。「やめなさい、阿難。泣くな、悲しむな。わたしはいつも説いたではないか。生じたもの、存在した もの、つくられたものはいずれ壊れる。すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れるのも同じ道理なのだから。悟りを開く人は過去にもいたし、未来にも いるだろう。悟りを開く人のそばには、必ず侍者があった。阿難は実によくやってくれた。わたしにとって最上の侍者だった。これからも怠ることなく修行を完 成なさい」。この言葉を最後に、釈尊は息を引き取りました。80年のご生涯でした。その瞬間、阿難は両腕を突き出して泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、 のたうち廻ってころがったそうです。阿難は他の誰よりも多く釈尊のお言葉を聞くことができましたが、教えを聞き過ぎたためにかえって理解に苦しみ、また自 らの修行にじっくり時間を割けず、他のお弟子がことごとく悟りを開いていくなかで、いまだ悟りを開いていませんでした。ゆえに大地をのたうち廻って悲しん でいたのですが、その姿とは対照的に愛執を離れた修行僧数人は、ぐっと涙を堪えていました。
 

 そのなかに羅嵯羅の姿がありまし た。釈尊は王子として生まれ、長じて妃をとり一子をもうけた直後に出家しましたが、その子が羅嵯羅です。羅嵯羅も9歳で出家し、釈尊のもとで修行を続け、 このとき50歳。師が父であることから教団内に嫉妬する空気があり、ゆえに人一倍努力を続け、険しい山野で独り瞑想を重ねてついに悟りを開き、阿羅漢とな りました。釈尊も羅嵯羅を特別扱いすることなく、だからかお経のなかに羅嵯羅が出てくることはほとんどありません。愛執を離れた羅嵯羅は、釈尊入滅の場面 でも表情を変えません。その姿は完成された修行僧で、阿難と対照的ですが、実父が目の前で息を引き取るという点を考えると、かえって不自然でもあります。
 

  一方で平安時代の『今昔物語』に、羅嵯羅が釈尊のたった一人の息子としての側面が、自然に描かれています。羅嵯羅は釈尊入滅の悲しみからに耐えかねて、そ の場から逃げ、神通力を使って仏の世界へ飛びました。しかしそこにいた仏たちに諭され、元の世界へ戻ることになります。そして羅嵯羅が戻ってくることを、 死の床にある釈尊は待っていました。羅嵯羅の手を握り、「羅嵯羅よ、おまえはわたしの子だ。十方の仏たちよ、どうか羅嵯羅を護りたまえ」。これが釈尊の臨 終の言葉だったと、『今昔物語』にあります。お経に描かれる釈尊は、「すべてのことは無常であり、そこからただ解き逃れることを求めなさい」と羅嵯羅に 語ったとあり、それに対して羅嵯羅は教えを淡々と受け止めたとありますが、『今昔物語』で描かれているのは修行者であり師としての釈尊ではなく、子を想う ひとりの親としての姿です。
 

 父に捨てられた羅嵯羅は、寂しさと憎しみのなかで少年期を過ごしたことでしょう。9歳から父と過ご したとはいえ、集団生活ゆえ多感な頃であっても父としての慈愛あふれる言葉はかけてもらえなかったはずです。羅嵯羅は晩年になってようやく自らを幸運だっ たと認めることができたものの、修行者の集団とはいえ愛憎のなかで、釈尊の子という重圧と闘った青年期、壮年期だったことでしょう。しかし父子は臨終とい うクライマックスにようやく互いを認め合ったというのが『今昔物語』の物語です。愛憎というドラマが根底に流れているからこそ、諸行無常の言葉が響く。死 別の悲しみには涙が合うと考える感性は、国境と時代を超えて変わらないはずです。(住職)