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仏教エトセトラ

仏教にまつわるよもやま話

ふるさとは遠きにありて

 その人は金沢市街を流れる犀川のそばに生れ、寺院で育ちました。寺院の寂しい一室で本を読んだり書いたりするのが好きな少年でした。養父だった住職は茶が好きな人で、茶をいれては茶の間から呼んでくれ、二人で朝や午后やを匂ひの高い茶をのみ、「それが私の読書や詩作を非常に慰さめてくれた一つのものであつた」と後に語っています。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

 その人、室生犀星はこの詩句の通り、文壇に盛名を得た後も金沢にほとんど戻らず、代わりに犀川の写真を貼っていたといいます。ふるさとを熱烈に思う郷愁と、帰ったとて記憶のなかのふるさとはもはやそこには残っていないことを受け入れる理性とが、折り重なるように自分を襲ってくる詩です。
 わたしたちは、外界の事物が世界を構成していると思っています。しかし実際は、わたしたちの脳が過去の経験の記憶に基づいて世界を構成しています。現代の認知心理学ではそう指摘し、2600年前に仏教を開かれた釈尊も同様のことばを残しています。目で見る世界が真の世界ではなく、脳が自分に都合の良いように世界を創っていると。人は自分で意味を創り、自分が紡ぐ意味の網を張りめぐらせた世界に住んでいると言う人もいます(大井玄『病から詩がうまれる』)。あるアルツハイマー病の女性が病棟を抜け出し、自分のアパートに帰ってしまったことがあったそうです。病棟医とナースが連れ戻しに行き、「保健所から来ました」と言うと、自分の部屋に素直に入れてくれました。そこには市松人形が二つ寝かされていました。彼女の夫の具合がよくないから一緒に来てくれ、という出まかせの理由を言うと、彼女は疑うことなく承諾しました。「ちょっと待ってください、子どもたちにご飯をあげますから」と言って、人形に食べさせるしぐさをしたあと、病棟へ戻ったそうです。わたしたちの認知する外界とはつながっていませんが、この女性の脳に蓄えられた経験と記憶が創る「意味の世界」にこの女性は生きていて、それは認知能力の低下が有る無しにかかわらず、誰もが同じく当てはまるのだそうです。
 室生犀星は生後まもなく生家近くの寺に最初は私生児として迎えられ、住職である室生家の養子となったのは7つの時。実の両親の顔を知らずに育ちました。繊細かつ鋭い感性の少年だったのだと思います。その寺は犀川に面し、そこから眺める犀川と周辺の自然を長く愛した人でした。

 何といふ善良な景色であらう
 何といふ親密な言葉をもつて
 温良な内容を開いてくれる景色だらう
  (「犀川の岸辺」)

 文学を志して上京したものの、ふるさとを一歩出れば世界はつらいことに満ちていました。ふるさとの川の景色は、養父母の慈愛を一身に受けた時代の体験と一緒になって記憶され、自らを慰め励ますよりどころだったことでしょう。しかし、ふるさとへ久々に帰省して感じるこの何とも言えぬ違和感。ふるさとは遠く離れたところから思うものであって、ここに居たのでは悲しい気持ちにさえなってくる。たとえ乞食になったとしてもここは帰るところではもはやない、ああ早く東京へ戻りたいと思わせる、この気持ちは一体何なのか。あの頃の友人もいなければ、養父母も実の両親も他界し、景色すら変わっていた。人間はそれぞれ意味の世界に生きている。それは一瞬一瞬、絶えず変化している。帰るべきところがなかったと気づいたとき、もはや行くべきところもないと感じることでしょう。没後、室生犀星の遺骨は金沢市郊外の野田山墓地に埋葬されましたが、それは犀星自身が本当の願ったことでしょうか。真の意味で、ふるさととは何でしょうか。

 僕は父と母とをうらんだ
 父も母ももう死んでゐた
 僕はほんとの父と母とを呪うた
 涙をかんじたけれど
 もうどこにもその人らはゐなかつた
   (「自分の生ひ立ち」)

 人は老いて、やがて死んでいきます。老いながら、体力の低下や身近な人との死別などを通し、世界とのつながりが少しずつ絶たれていく悲哀を味わい、時々刻々と不安に鞭をうたれます。その苦痛と不安から逃れることは誰とてできませんが、自ら創る「意味の世界」にいることでその苦痛を和らげているのでしょう。たとえばわたしは、南無阿弥陀仏の世界、阿弥陀如来の世界にいて、阿弥陀如来に我がいのちを受け止めてもらうことで、こころの安らぎを得ています。外から見る人には、きっと滑稽に映ることでしょう。しかしその世界にわたしは、ことばを超えた満足を感じています。(住職)