読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

仏教エトセトラ

仏教にまつわるよもやま話

ブッダの語ったことば

f:id:j_yoshimi:20161009101528j:plain

仏教学者の石飛道子さんをお招きし、10月9日に第5回「法話会」を開きました。以下はその抄録です。
-------------------------
 人間を蓮華にたとえたブッダの言葉が残っています。世界を見渡すと人間は九種類に分かれる。汚れの少ない者と多い者、感覚の鋭い者とそうでない者、善い形相の者とそうでない者、教えやすい者とそうでない者、来世に恐れを抱く者。それはまるで青い蓮華や赤い蓮華、白い蓮華のようで、それぞれに水面から出ないもの、水面に接して立つもの、水面から出て立つものの三通りあって九種類あるのと全く同じだと。
 
 さらにブッダはどう生きるべきかを説いています。欲望がかなったときは嬉しいものだが、かなえられなかったとき、人は壊れていく。ゆえに自らの欲望に気づき、避けて生きるべきだと。気づくことによってそれ以上の欲を抑えることもできると。
 わたしたちは暴流に翻弄される舟のようだとも言っています。人生という暴流に漕ぎ出して、向こう岸に渡らなければならない。しかし舟は壊れて水漏れしている。些細な水漏れも、やがて舟を沈めるほどの水になることがある。そうならないよう、気づいたら水を汲み出しなさいとブッダは言います。壊れていない舟が良いに決まってますが、わたしの舟は所詮壊れているわけです。壊れた舟しかわたしには無いのです。手元にある、使えるものだけで彼岸を目指して渡るわけです。
 かくいうブッダはどのようにして暴流を渡ったのか。ブッダは言いました。「わたしは止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡りました。立ち止まるとき、実際、沈みます。力を入れてもがくとき、実際、流されます。だから、立ち止まることなく、力を入れてもがくことなく、暴流を渡ったのです」。

  大乗仏教では向こう岸へ渡る、到彼岸ということがよく出てきますが、小乗仏教にはあまり語られません。人間は欲が湧くものです。しかしそれを避けるようにとブッダは言います。欲を避けること、そして水が入ってきたら掻き出すこと。その二つで人生を生きていくことができると。誰かこの方法で、彼岸に渡った人がいるだろうかと探したら、妙好人に出会いました。妙好人とは浄土真宗の篤信の信者のことで、なかでも因幡の源佐さんが知られています。妙好人の語源は「念仏するものは人中の分陀利華なり、妙好人なり」(善導大師『観無量寿経疏』)。
 源左さんは18歳で父を亡くします。父は「おらが死んで淋しけりゃ、親をさがして親にすがれ」と言い残したそうです。以来父が言っていた「親」をさがして仏法を聞き、三十歳を過ぎたある日、牛を連れて草刈りの帰途、自分が背負っていた草を牛の背に負わせた瞬間、ふいっとわかったそうです。親にすがれとは阿弥陀如来にすがるということで、親はこのわたしの生も死も引き受けると言っているのだと。

 ブッダが入滅されて500年たって、インドに龍樹菩薩という方がお生まれになりました。仏教中興の祖と言える方です。それから800年ほどたって日本に親鸞聖人がお生まれになられ、念仏と信心という二つのことばをもとに仏法は再び大きく花開きました。さらに幕末から明治大正にかけて妙好人が現れました。仏法は長い年月の間にどれだけ変わったのか、あるいは変わっていないのか。阿弥陀如来も念仏も、ブッダが残したことばには元々ありません。しかし、ブッダのことばをきちんと読み解けば、大乗仏教こそブッダの教えだとわかります。智慧と慈悲は阿弥陀如来となって具現化し、彼岸にわたる方法は信心と念仏によって確立されました。それは源左さんが証明しています。小乗仏教に伝わるのは出家者が彼岸にわたる方法であって、わたしたち凡夫は凡夫に適した方法で彼岸を目指さなければなりません。凡夫は蓮華のように様々な色があるのですから。(談)